2017.04.26

沖縄ファミマのひみつ #2 沖縄ファミマ黎明篇


沖縄のファミリーマートは内地のファミリーと品揃えが異なる。当たり前といえばそうなのだが、何があって何が無いのか。あるいは内地のファミリーマートとは何が違うのか。この連載ではいろいろな沖縄ファミリーマートにまつわる「ひみつ」を、聞き取りをもとに明らかにしていこうと思う。

創業当初の沖縄ならではの苦労とは

現在は沖縄県で最も店舗数が多いコンビニである沖縄ファミリーマート。前回の話で1987年12月に1号店をオープンさせたというお話をうかがったのだが、開店当初から沖縄で受け入れられたのかというとそうではなかったらしい。そこには沖縄ならではの苦労も多々あったらしい。

橋口和久さんと當間重政さん

今回も前回に引き続き創業当時のことを知る橋口和久さん(眼鏡のかた)と當間重政さん(ジャケットのかた)に当時のお話をうかがった。

「酒も刺身も置いてないのか」

當間重政さん

— 1987年に第一号店の「国場沖大前店」がオープンしたとのことでしたが、沖縄ファミリーマートの評判はどうだったのでしょうか?

(當間さん) 最初はコンビニという業態が沖縄であまり知られていないから「酒も刺身もないのか」というクレームがありましたね。

(橋口さん) 精肉は置いていたんですけどね(笑)。

— ちょっと意外なのですが、当初はお酒は置いてなかったんですか?

(當間さん) お酒を店舗で扱うには酒販免許が必要なんです。現在は規制緩和で取得条件が緩くなっていますが、当時は一定の距離内に酒販免許を所持している店舗があると取得ができないというのがあったんです。沖縄は戦後復興のためにおじいちゃん、おばあちゃんがやってるような小さなまちやぐゎーにたくさんの酒販免許を付与していた経緯があるんですね。 だから新規で酒販免許を出してくれるようなことはなかなか無くて、スーパーですらお酒を扱えない店舗があったくらいなんです。これは内地ではあり得ない状況でした。

— 他にも沖縄ならではの苦労、というのはあったのでしょうか?

(當間さん) さあコンビニをはじめるぞ、となっても物流コストがかかるので、本土のメーカーさんがなかなか供給してくれないというのはありました。今と違って供給インフラも整っておらず、欠品してしまうなんてこともありましたね。でも遠く離れた沖縄までよく対応してもらったと思います。

(橋口さん) 内地で製造されているお菓子なんかはずっと売価が異なっていたんですよ。例えば内地のファミリーマートで100円のものが、沖縄ファミリーマートだと120円みたいなことですね。

— お弁当なんかはどうしていたんですか?

(當間さん) 地元のお弁当屋さんから仕入れていました。味は東京で開発された商品に近づけていましたね。当時は沖縄ホーメルさんがお弁当を作っていたりしたんですよ。そこのカツ丼がおいしかったと記憶しています。

(橋口さん) あれは美味しかったですね。 スイーツなんかはこちらに工場がないので内地から週三回内地から空輸していました。すごくコストがかかっていました(笑)

(當間さん) それを沖縄でやろう、ということでスイーツの工場を作って、それからお弁当もみなと食品という工場を作って少しずつ自社でまかなえるようにしてきたんです。

東京のマニュアルが通用せずに試行錯誤の繰り返し

沖縄ファミリーマートに飾られていた開店チラシ(沖縄ファミリーマートに飾られていた開店チラシ)

— 商品展開の苦労についてお話頂きましたが、店舗の展開は順調だったのでしょうか?

(當間さん) 当初は店舗展開も東京のマニュアルをもとに出店していたので、全部十字路に面した角地に作ったんですよ。十字路で人が歩く所がよいだろうみたいなことで。交通量調査などもやってはいたのですが歩く人がメインで車にあまり重きが置かれてなかったんですね。沖縄は車社会なのに全く車を無視していました。 当然うまく行くはずがなくて、沖縄独自の立地採点表を模索してましたね(笑)。店舗を新しく作りながら、店舗を閉めるような状態でした。

(橋口さん) 当時はそんなに店舗がなかったので、店舗を閉めると「ああ、沖縄ファミリーマートは経営が危ないのか」みたいな噂が広がる時代でしたね。

(當間さん) 当然、当時はフランチャイズのオーナーさんもつかなかったですね。内地だと地元に基盤がある酒屋さんや商店がコンビニに転向していくような流れがあったんですが、沖縄はそういったお店が無くて、小さなまちやぐゎーしかなかったのもあると思います。 年間4店舗しか増えない年もあったし、作っても作っても業績は上がらないし。これからどうなるんだろうと思っていた時代でしたね。それでも我々が頑張って来たのは東京の役員の方に「まずは60店舗を目指しなさい、そうすれば形が見えてくるから」と言われたからなんですね。

橋口さん(橋口さんは沖縄ファミリーマートでのアルバイトを経て入社した経緯の持ち主である)

— 60店舗を達成したのはいつくらいですか?

(當間さん) 1992年のことですね。それから店舗を増やしていって100店舗くらいになった時期にようやく累積赤字も消えて、ほっとしたのを覚えています。 東京のマニュアルもなかなか通用しないところもあったし、何もないと言ったらおかしいけれど、我々にはお手本がなかったので、本当に試行錯誤しながらやっていた時代でしたね。

— 現在では沖縄独自の商品も展開されてると思うんですが、そのような路線になったのはいつくらいからなのでしょうか?

(當間さん) 沖縄ファミリーマートの創業当時は「内地のものを沖縄に」という意識が強くて、沖縄色を排除しよう、という流れがあったんですね。でも、それじゃあダメだということで色々やり始めて、2000年頃にフライドチキン、ゴーヤー弁当、ポーク玉子おむすびを発売したんです。売り上げが上がってきたのもそれくらいで、思えばあのあたりが転機だったんじゃないかと思います。

オニコロ
(創業して1年くらいで誕生したヒット商品「オニコロ」。とにかく売るものを模索していた時期だったそう。)
ローカルヒット商品
(沖縄ファミリーマートのローカルヒット商品。これらの話は次回以降でも掘り下げていきたい。)

創業して最初の10年は各地域の中で売り上げ最下位で毎回東京に行ったときに立たされていましたから(笑)。今ではおかげさまで沖縄ファミリーマートは全国で東京に並ぶくらいのトップクラスの売り上げをだせるようになりました。失敗談もいろいろありますけど、今ではあんなこともあった、そんなこともあったと、笑い話になりましたね。


 

というわけで第二回目は創業当時の沖縄ファミリーマートの苦労話を中心にお話をうかがった。沖縄ファミリーマートは現在でこそ沖縄県最大のコンビニチェーンとして名を馳せているが、そこに至るまでは酒が置けない(免許がおりない)、車中心の社会が東京のマニュアルと合わないなど沖縄特有の課題もあり、ずいぶん苦戦していたことがうかがえる。(余談だが、コンビニチェーンで言えば沖縄ファミリーマートに先駆けてすでにホットスパーが沖縄にはあったが、ホットスパーはファミリーマートと違い、都市部よりは郊外に店舗を展開していったために割と棲み分けができていたということである。)

この流れで起死回生の一手であるフライドチキンやゴーヤー弁当、ポーク玉子おむすびなどの商品の話をご紹介したいところなのだが、次回は個人的に大事件だったココストアの吸収合併と焼きたてパンの行方についての話をご紹介する予定である。それではまた次回にご期待あれ。